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よっちゃんへの鎮魂歌 ~私とKaien 第11話~

2016年10月25日

 『私とKaien』は当社の就労移行支援を利用していた訓練修了生や、ガクプロやTEENSをご利用中のお子様を持つご家族など、Kaienと一緒に発達障害の魅力を世の中に広げていただいている方々へのインタビューシリーズです。

 第11話は、大学院修了後にKaienを利用し、就職したものの、その3か月後に自宅で心不全。27歳で帰らぬ人となった男性のお母さまにお話を伺いました。

何を感じているか、考えているか しゃべってくれない

 私もはじめは公務員だったんです。お父さんと一緒の職場。でも私も完璧にやりたいほうで、よっちゃんが2歳の時、専業主婦になりました。

 よっちゃんが小さい頃ですか。他のお子さんを避けているような。私に喜びを与えてくれないというのかな。動物が好きだったので、私が動物の絵を描いてトイレに貼っても、ミニ四駆が流行ったので夫婦で5時間かけて作ってあげても、いつも反応が乏しい。本当に喜んでいるのかな、と思いましたね。弟が6年後に生まれました。弟は嫌なことが言えたんです。でもよっちゃんはなかなか嫌と言わない。ああ違うんだなと思いました。

 塾に入ったら、受験のプレッシャーで円形に髪が抜けて。100円玉ぐらいです。学校でも、落ち着かない。急に席を立ったりする。手癖も悪くて、いつも手がおなかのあたりでもじもじしている。小学校の先生からは親の愛情が足りないといわれました。17年も前のことですけれどもね。友達に誘われて出たのが天才クイズというテレビ番組。殊勲賞をとったんです。脚光を浴びて、画面でも落ち着きのないのが見えましたけれども(笑)。なにかスイッチが入ったというのか、それから雷に当たったみたいにクイズにはまりましたね。

 数学に関しては割と答えがはっきり出るので、100点をとったりとか、天才と言われたりしてました。そこからそういう自分を守らないといけないと感じたんでしょうね。でも中3の時に周囲が勉強し始めて、どんどん抜かされる。本人は精神不安定になっていきました。

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すったもんだ 毎朝4時からの家族会議

 その頃カウンセリングに通い始めました。親子ではなく私だけです。よっちゃんは自分のことを語ってくれないし、父親はそれが個性じゃないかというし。でも私は正体がわからなくって。相談した内容は、子どもの考えがわからない時に、どういう言葉をかけたらよいのか、とかですね。私はいまだにカウンセリングに2週に1度は通っています。

 様子を見ていて中学生の弟が「にいちゃんて絶対変だけれども、僕も将来ああいうふうになるの?」の聞いてきたこともありました。兄弟ってそういう風に考えるんだなぁと。その時は、良いとも悪いとも、そうだとも、違うとも説明せず、人に多かれ少なかれ重なるところはあるよね、という話をしたと思います。

 大学は絶対に外に出ると頑として聞かない。うちにいると好きなクイズが出来ないということなのでしょう。でも親としては薬物とか宗教とかお金とかが心配。浪人もしましたし、私が癌がわかって将来がわからなくなった時と重なって、すったもんだ。家がめちゃくちゃになりかけました。毎朝夫婦で4時ぐらいに起きて話し合いです。私はいつ死ぬかわからない。夫が好きなことをやらせてやろうといってくれて。それで自分も気持ちがまとまりました。

 結局大学は千葉のほうへ。その頃には発達障害だろうなというのは私もわかっていたので、事前に名古屋大学の発達心理学の相談室に行かせました。本人も親もいけるところです。時間帯をかえて通いました。うちを出る条件としてですね。すこし気づいてほしいなと。でも、障害は認めないし、相談員からも告知は今は無理だという話になりました。

 で一生懸命マニュアルを作ったんです。宗教には入ってはいけませんとか、薬は病院でしかもらってはいけませんとか、お金は無駄に使っちゃいけないけれども、どうしても必要な時はお父さんとお母さんに相談しなさいとか、そういうマニュアルです。お金がなかったらいうんだよ。きちんと発信するというのをやってほしかった。結果、大学時代、人にお金を借りることもなかったですし、それだけは守ってあげたかな。クイズが思う存分できたようで、いい仲間ができたようです。告別式にも、それが終わってからも、たくさんのクイズ仲間がお参りに来てくれましたから。大学院は地元名古屋に戻ってきました。

クイズ仲間と

クイズ仲間と

 

進まない障害の受け止め

 修士2年目、修論と就活をして倒れたんです。救急車で運ばれました。脳波を調べたんですが、それでもはっきりわからなくて。10月にまた2回倒れました。いっぺんに二つはできないからと就活は中止です。私は倒れたことは、発達障害につながるかもしれないと思ったので、名古屋の中で発達障害を診断してくれる病院をあたりました。3月に診断を受けて、自閉症スペクトラムでした。本人も倒れたので不安があったのか診断は初めて受け止めたようでした。

 結局就職が決まったのは6月。東京にあるSE派遣のIT企業でした。9月に採用されて、働き始めたんですが、すぐに親が呼ばれました。会社に行ったら、よっちゃんは、掃除をしていた。長靴はいて。なんで親が呼ばれたかを正面からも受け止めていないようでした。会ってくれたのは、会社のナンバー2の人と直属の上司の方。解雇と言われてすぐだったので、こっちも気が動転していましたが、父親が障害者枠がないかと聞いたら会社が調べてくれて。また2週間後に会社を訪れました。

 今度は会社の社長が、「あの子は本当に、愛情に飢えている。一緒にデッキブラシを買いにホームセンターに行くのだが、デッキブラシがどういうものかわからない。一緒に上野動物園に行った時に、動物が好きだといった。動物が好きだということは人間が嫌いだということだ。ヘレンケラーの、サリバン先生はそうやって愛情をかけて子どもを育てた。でも僕はあの子を障害者枠で面倒を見ます。」と言ってくれたんですね。わたしとお父さんは、立って涙を流してありがとうございます、と言って名古屋に帰りました。

 今度は「よっちゃんの社会人マニュアル」の作成です。苦手なところ。お金の使い方とか、お父さんと二人で作って、それを受け入れると思っていたら、1週間ぐらいしてメールに、「お母さん、僕はあのXさん(社長のこと)がああいうひどいことをしたから許さない。」といって、結局、入社から半年ぐらいしか持たず、4月に退職することになりました。

 障害が受け止められなかったんでしょうね。障害者枠を使って僕を当て馬にしているんだ。僕が障害者にされるのは、数学検定が準1級で1級じゃないからだ。クイズが1位じゃなく20位だったとか、いろいろな理由を付けていました。実はその間にも数回倒れていました。やっぱりいっぱいいっぱいだったんでしょう。

Kaienでは今まで習えなかったことを教えてもらえている

 よっちゃんが倒れて、上京した時にKaienの資料を渡していたんです。2月ぐらいに「安心した、僕はKaienに行きます」と。Kaienの説明会で社長さんにお会いした時に、今の病院よりも、てんかんの病院に行ったほうが良い、とアドバイスを受けてクリニックを移りました。その病院は亡くなった時もご挨拶をしたら非常に驚かれて丁寧に説明を頂きました。

 順番待ちがあってKaienに正式に通い始めたのは9月。Kaienで何をしているかは、自分が解雇された直後で後ろめたい気持ちがあったから、そんなに積極的にはしゃべってくれなかったです。訓練では古着の店舗をしていたらしいです。自分の服を送った時に、「お母さんありがとう。店長が喜んでいました。」とメールがありました。そうやって店長とか言っているんだなと思いましたね。「Kaienでは僕が今まで習えなかったことを教えてもらえている」と言っていました。「むずかしくもなく、簡単でもなく、ちょうどいい感じ」だったそうです。

 でも、なかなか障害者枠への踏ん切りはつかなかったようです。11月の帰省の時もその話ばかり。ちょっとお父さんが席を立った時に、私を呼ぶので何かと思ったら、自分が出場したクイズ大会の映像を見せられました。「こんな時になんでそんな話を持ち出すの!」と心の中では思ったんですが、勝ち抜けの時に一か八かで早押しをする場面でした。「よっちゃん凄いね、勝負したんだね」といったら「うんそうだよ」とうれしそうで。私に認めて欲しかったんでしょうね。あれが実家で過ごした最後の時間でしたから、あそこで受け止めてあげなかったら私すごく後悔していると思います。

 東京に帰った後、最終的にスタッフの高橋さんの説得も効いて、ようやく1月の面接会に参加することになりました。そうしたらグリーの特例子会社から内定をもらえて、2月16日に働き始めたんです。

よっちゃんマニュアル①

よっちゃんマニュアル①

よっちゃんマニュアル②

よっちゃんマニュアル②

 

諦めない にいちゃんはすごいね

 文京区から横浜市まで弟が引っ越しを手伝いました。最後に弟にメールがあって「新しいスタートが切れそうです、ありがとう。」と。弟も「にいちゃん良かったね。」と言っていました。「お兄ちゃんね、いろんなことがあって、お盆もお正月も家に帰ってこなかったけれども、Kaienで訓練していて、障害者枠で入ったんだよ」って。私が説明したら、弟も「にいちゃんえらいよね、そこで諦めなかったんだね。諦めなかったにいちゃんはすごいね」って。

 体力がないことを知っていて、プールに行こうとしていました。「度付きのゴーグルはないですか?プールのバッグはないですか?」って。お金をいくらか送ったら「ありがとうございます。」といつもなんですけれども、硬い文章でメールが来ました。強くなりたいとか、体を丈夫にしたいというのは自分の中では思っていたらしいですね。

 亡くなったのは5月7日(土)未明のことです。毎日メールのやり取りはあって、仕事は順調で体調も問題ないとのことで安心していたのですけれども部屋で一人でなくなっていました。死因は心不全。休み明けの月曜日の朝、Kaienより無断欠勤していて本人との連絡もつかないとの知らせを受けて夫と二人が駆け付けた時は、苦しんだ様子もなく、静かにベッドにうつぶせになっていました。

 てんかんの発作だったのかどうかはわかりませんけど、突然逝ったのはたしかです。扇風機を付けて、額にひえぴたをつけて。3カ月の試用期間ももうすぐ終わり、継続雇用の約束も頂いて、前日に新しい通勤定期も買っていましたし。短かったけれどもグリービジネスオペレーションズさんはありがたかったです。クイズ以外で自分の居場所を見つけたんだと思います。お笑いのライブを見る約束も友達としていたみたいですし。

 今天国からどう言うかな。離れたところで。本音を言えば、少しずつ自分自身を受け入れていく姿を観たかったなと、親としては思いますね。努力でカバーできると思って、あの子はそれで貫いて逝っちゃったかんじ。あの子らしいのかなぁ。

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ご本人がつけていた社会人ノート

 

(取材:2016年9月)

 

Fさん:Kaienの就労移行支援を利用し、障害者枠で今年2月に就職したものの、3か月後に自宅で心不全で亡くなった享年27歳・男性のお母さま。名古屋に在住しながらKaienのイベントにも顔を出している。

  • 性別: 男性
  • 年齢: 享年27歳(2016年)
  • 診断: 自閉症スペクトラム症(2014年)
  • 業種: インターネット
  • 職種: 事務
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