コーポレートサイト : 株式会社Kaien
MENU

障害とは何か

 今回の相模原障害者施設殺人事件。新聞などの記事を見ての印象ですが、SNSやネットにやや偏った議論が多いと思い、自分の意見を発信しようと思いました。社の意見を代表しているわけではありません。個人的な意見です。

 まだいろいろと報道に出ていないこともあるので、全く見当違いもあるかもしれません。また不愉快な気持ちにさせてしまったら申し訳ありません。今の気持ちを真摯に書いていきたいと思います。

障害者ではなく人が殺されたということ

 個人的にまず重要なのは、障害者が殺されたのではなく、人が殺されたということです。たしかに障害者施設で、障害のある人が殺されています。また容疑者も障害のある人だけを狙うことを宣言し、実行しています。

 が、障害者の殺人と考えると、そもそも容疑者と同じ目線・思考で考えてしまうことに陥りやすいと思います。また、障害があろうがなかろうが人は人です。なので、この事件で一番重要なのは、まず19人もの尊い命が奪われたという事実だと思います。心からご冥福をお祈り申し上げます。

 当然「抵抗が出来ない、しにくい、弱者である障害者を狙うなんて」という感情移入は多くの人に起こるでしょう。でも過度な感情移入だけでは何も始まらないともいえます。

障害児の親として、障害児者向け事業の経営者として、感じること、感じないこと

 自分の子どもにも”障害”があります。また、それがきっかけで私は障害児者の事業を始め、今も経営しています。が、このニュースの一報を聞いた時に、自分の子の安全を考え直したか、障害施設の安全を考え直したか、というとそうではありません。

 1世紀に一回起こるかどうかの、普段の私たちの生活から大きくかけ離れた、常軌を逸した犯行について、自分たちに関連することと考えることは正直難しい。障害云々の前に、一人の命が奪われただけでなく、その数の多さに、上手に心が動かないのだと思います。繰り返しですが、障害者が殺された、というよりも、多くの人が一瞬にしていなくなった、不思議な感覚で、率直に言うとまだ悲しみや怒りがわきにくいです。

 またあまりにも特異な犯行であり、障害児者や施設への危険度が急に高まるとはまったく思えません。日々日々のところでは昨日も今日も明日もあまり変わりません。

容疑者はなぜ犯行に及んだか

 ここからは私の勝手な憶測・想像です。

 いくつかの記事を読んで感じたのが、容疑者の生活臭というか、生育環境が、見えづらい、感じにくいということです。たとえば、数年前に両親が家を出て行って容疑者は一人で暮らしていたようです。その前後には言い争うような声も聞こえたとのこと。親が、成人後とはいえ子供を残して、家を出ていくというのはかなり異様です。

 この容疑者は愛情を感じて育ったのだろうか。先日、「黒子のバスケ 脅迫事件」の被告の意見陳述を読みましたが、同じようないびつな心理状態になってしまった流れが、今回の事件でもあるのではないか。これまでの30年弱で、しかも特に子ども時代にあったのではないかと、まず感じました。

「黒子のバスケ」脅迫事件 被告人の最終意見陳述全文公開 blank_blue

 急に態度・考えが変わった、というような記事もありますが、どこまでこの容疑者が自分の内面を、周囲に見せていたのかわかりません。暗く、混乱した、内面を出せず、取り繕うように外面を良くしていた気がしてなりません。ネットの記事を信じると、教職を目指しながら、刺青をしたので教員をあきらめるなど、どこかちぐはぐな感じがあります。

 自分の生い立ちや重苦しい影を振り払おうと、善人になろうとしたが、なり切れない。徐々に崩れていたものが、どこかではじけてしまったのではないか、と勘ぐってしまいます。本当に俗な表現で恐縮ですが、何かを契機にダークサイドに落ちた。弱さを振り払うために闇の力に惹かれないと、自分を維持できなかったのでは思います。

”重度障害者”が愛されているのが苦しかったのではないか

 なにがはじける要因となったのか?彼が弱者と思っていた重度障害者が自由に楽しく愛されていたのに混乱したのではないのかと、私は今のところ考えています。障害のある人がご家族に愛され、社会の中でしっかり生きていることに驚いたのではないかと。働いてみて自分との差を目の当たりにしてしまったということです。

 もちろん、容疑者が示唆しているように、障害者には税金が投入され、それに対する憤りが容疑者にあったのかもしれません。どうして色々と社会的に制約がある人に住む場所などが用意され、自分には与えられないのだというような感覚です。

 が、本質的なところは、生活介護が様々に必要な重度障害者でも、家族に愛され、ご自身も奔放に生きているところに、自分との差を感じたのではないかと思います。自分より”下”だと思っていた人間が、実は”上”にいる。働く中でそれを感じていった。そういう混乱が極度の憎しみ・妄想につながったのではないかと思わざるを得ません。

障害とは何か

 通常、障害というのは『何らかの原因によって長期にわたり日常生活または社会生活に相当な制限を受けざるを得ない人のこと』です。食事や排泄が難しいとか、コミュニケーションが難しいとか、普通に家や地域で生活をしたり、職場で生産的な活動をするのが難しい状態を指すものです。

 が、個人的にはもう一つ障害の有無・多寡をはかるものがあると思います。それは「楽しく、幸せに人生をおくる力があるか」ということです。憲法にもある自由及び幸福追求の力がある人が障害が無い人で、力が無い人は障害が重いという概念です。

 自分の、通常の概念で言う、”障害”がある息子を見ていると、自分よりも生きる力があるようで、後者の概念ではむしろ自分のほうが障害があるのではないかと思うことが多々あります。彼は本当に楽しそう。いろいろと苦手なこと、できないことはあります。社会的には高い地位に就いたり、お金持ちになったりは無いでしょう。でも、人間として幸福は追求できているし、人生に楽しさを感じているようにみえます。

 今回の容疑者は、後者の観点(楽しく、幸せに人生をおくる力があるか)で見ると大変に重度な障害者であり、「障害者を殺すのが善」というのは自己矛盾を抱えているようにどうしても見えてしまいます。容疑者のほうが苦しんでいる、幸福を追求する力を失ってしまった状態に見えるからです。

 かわいそうな人を殺したのであれば、申し訳なくて、自害したのではないか。それが、精神的にバランスを保っていないと思えるものの、ひょうひょうとして生き残り、あそこまで誇らしげな表情を見せるということは、何らかの感覚・意図が無いとできない。それは”重度の障害者”が自分より上位の人だと思っていることの裏返しではないかと、私は感じています。

私たちに何が出来るか

 あまりにもいろいろあり、まだわかりません。またどんな手を打とうと、どの時代、どの国・地域でも同じような社会から孤立していく、幸福を追求できなくなる人は一定数発生してしまうと思います。

 が、出来る限り少なくしたいものです。当たり前かもしれませんが、周囲にいる人にあなたのことを気にかけているよ、というメッセージを与え、行動で示することが始まりなのだと思います。

この記事をシェア / ブックマークする
Google+1
はてブ
あとで
Line
ページの先頭へ